奮闘記 in KOLKATA



別れの日のNo.25、右は何くれとなく彼に優しくしてくれたラム。


別れ
4月10日、ベッドNo.25との別れ、切ない見送りであった。
言葉が戻らぬまま、不随の右半身にさしたる機能回復もないまま、
車椅子で、恐らくは彼の家があるアンドラプラデシュ州のGuntur市にある
シスターの施設に移されることになった。
「神のご加護を」と笑顔で送ろうとする私に、心なしか泣き顔でウォーと発していた。
彼は家へ帰れるものと信じていたろうに。
「死を待つ人の家」に運び込まれたのが昨年2011年の6月24日、
ハウラー駅のプラットフォームに糞尿まみれで横たわっていたのを、
ボランティアがpick upしてきた。
頭にあった手術痕から推測して、倒れて手術を受けたものの、
半身不随と言語障害が残り、家族は駅まで連れてきて捨てた。
その後の検査で肝機能障害・黄疸・糖尿病も判明。
8月半ばから、油・スパイス・砂糖・肉なしの特別食を作り続けて、
体重は10kg強減り、検査値もほぼ正常になった。
ただ、リハビリを始めると激しく怒り出したり、情緒に波があった。先々を思うと、
何とか家族を探り出さねばと周りは思案し始めた。

そして2月の初め、シスターが「Kolkataではなく、他州の人間だろう」と言った。
全州の名前を出力した。
シスターが順に読み上げると、Andhra Pradesh州でアーとNo.25の顔がほころんだ。
次の日、その州の地域名、さらに市の名を出力したものを読み上げると、
Guntur市で大きな反応があった。爾来、彼は帰れるものと信じ始めた。
ある日、私がいつも食事の準備をするテーブルのほうへ連れて行けと催促した。
Guntur市の名が入った資料類をフォルダーに入れて置いていたのだが、
彼はその用紙を取り出そうとした。有り場所を知っていたのだ。
出力した紙を渡すと、今度はベッドに連れて行けと。
彼はその紙を左手で折りたたみ、枕の下に入れた。
以来、ベッドの清掃やシャワーの時にもいつも離さず持っていたため、
紙はよれよれになり始めた。
私はプラスチックの“IDカード入れ”にその大事な紙を入れて
「これで大丈夫だよ」と、首から下げてやった。

2月末に、インド人ボランティアのビンデルと相談して、
GunturのLocalの新聞に写真入りで情報求むの広告を出したが、
反応はなかった。やがてGuntur市にマザーの修道女会の施設があると判り、
シスターはとりあえずそこへ移す段取りを始めた。
地元で家や家族を探してもらおうと。
時間がかかっても、ともかくも彼はそこで母語である
テルグ語をいつも耳にすることができるのだから、
何か新しい糸が探り寄せられるかもしれない。

そして4月10日、他の患者さん達が
「Sumikoアンティのボロ バッチャ(大きな赤ちゃん)が今日行くんだね」
と私に繰り返した。
英国人のボランティア・クリスは、
手製の楽な綿の長パンツを他のボランティアに言付けて届けてくれた。
ハウラー駅から彼をpick upしてきたボランティアの一人なのだ。
シスターがAndhra Pradesh州の習慣らしい白のルンギ(腰巻)を用意していたため、
そのパンツの出番はなかったが、クリスの心遣いが無性に嬉しかった。
12時過ぎ、ワーカー二人に付き添われてマザーハウスへ向かった。
Gunturの施設に行くシスターと合流して駅に行くのだ。
日々繰り返す患者さんとの別れなのだが、No.25にはやはり特別の思い入れがあった。
小さな進歩を喜び、恐ろしい形相で怒る表情に悲しみ、食べないと心配し、
マザーの胸像の前で共に祈り……。
8ヶ月作り続けた治療食もその必要が無くなり、虚脱感からか、
しばらく自分用の料理さえ作れなかった。

Gunturの駅に降りた時、雄叫びのような声を発して喜んだらしい彼の様子を思い浮かべ、
きっといつか家族が受け入れてくれる日が来るようにと、
あえかな望みとともに祈るしかない。


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