奮闘記 in KOLKATA




生きて欲しい!
ウォー! 歓声とともに拍手がベッドの周りで湧きあがった。
2月23日、「死を待つ人の家」に意識不明で2時間前に運び込まれた男性が、
目をしっかりあけて反応し始めたのだ。
居合わせたインド人ドクターが
「非常に弱ってはいるが、心臓マッサージを続ければ戻ってくるだろう」と。
酸素吸入しながら、運び込んだドイツ人ボランティアのセプと日本人学生が交代で、
30分以上胸を押し続けた。
普段は男性患者の看護はしない私も、
冷たくなった足先にゴム製湯タンポを敷き、足をマッサージした。
2週間前にも同じような男性が運ばれて来てすぐに亡くなったから、
今度もダメかなとは思いつつ。
路上で息絶えたかもしれない青年は、思いもよらぬ定めでここに来て、
異邦人の注視と祈る思いを受けて蘇生した。
彼自身にとってそれが救いだったのかどうかは今は分からない。
半端でない悪臭を放つ衣類をまとったまま、
早く生を終えたいと願っていたことさえあり得る。
感涙をこらえながら気分が高揚していた私も、
これからの彼のことを思うと複雑だった。
縁あって我々のもとで戻ってきた命、
貧しくとも生き抜く力も取り戻して欲しいと願わずにいられなかった。
昼食も平らげていたし、特別な疾患が無いかぎり、
かなり早く又ピックアップされた場所に戻されるだろう。
駅周辺の路上に。
束の間のお世話はできても、
あとは彼の身体と心の健康を祈るしかできない。
出身は? 家族は? 仕事は? 
シスターが聞いていた諸々はあとで教えてもらえるが、
英語も話していたし、気力さえあればやっていける、そう信じたい。
ボランティアのセプの背中をたたいて、「よかったね」と声をかけた。
彼にとっても忘れ得ぬ経験になるに違いない。
口数少なく優しい眼差しの、ほんとに献身的な青年である。




健康にさえ恵まれれば、こんな子沢山のスラム暮らしでも明るく逞しいのに。


可愛くてほんわか笑顔のマヤ、ありがとう
それは突然だったけど、マヤは静かに逝った。
最期に言葉を交わすこともなく。
推定65歳、カリガート(死を待つ人の家)に来て2年半、
穏やかで笑顔がとても可愛いい甘えただった。
これといった既往症はないのだが、身体の老化が早かった。
若い頃の食習慣も影響しているのか、腰の曲がりが極端だった。
彼女の前でわざとおどけた身ぶりをすると、
ニコッと目を細めてくれるのが嬉しかった。
2月14日の朝、早い朝食もシャワーもいつも通り済ませたという。
だが私の着いた時には呼吸が荒くなって酸素吸入を始めるところだった。
「えぇー、どうしたの?」
そういえば昨日、日中はいつも椅子に座っているのに
ベッドで寝たいと訴えていた。
あれがアラームだったとは。
「マヤ、マヤ」 瞼は閉じたまま、手を握り返してもくれない。
イタリア人ナースのテレサが、
点滴針を入れようと細い血管を探りながら何度も何度もトライしてようやく入った。
しかし、すでに脈拍はほとんど取れなかった。
ボランティアの誰もから慕われたマヤと、
こんなにも早く別れることになろうとは。
彼女が大事にしていた唯一の持ち物は、
私が日本から持ち帰った透明のプラスチックケース。
2枚の写真が入っていた。
一枚は、スペイン人のアンドレアと撮った写真、
もう一枚は日本人の美樹さんと撮ったもの。
手でなぞってよく眺めていた。シーツ交換やらで清掃時は、
失くさないように注意するのが私の役目だった。
その写真を、逝こうとしているマヤの枕元に置いた。
立ち動きながらも何度も様子を見にベッド脇に寄って名前を呼んだ。
そして昼前、シスターは亡くなったことを確認した。
せめてひと言でもその目に最期伝えたかった。
「ありがとうね、素敵な笑顔を」
無性に寂しく、しゃくりあげて泣いてしまった。
シスターが「sumiko、どうしたの」と肩を撫でてくれた。
これまで沢山の人を見送ったのに……。
その3日後、アンドレアがやってきた。
今回も、路上や駅から弱った人をpick upしてくるワークのために。
彼女に一部始終を報告して写真を渡した。
彼女もしゃがみ込んで泣いていた。
そして写真を持って行ってしまった。
思えば、マヤからは家族のことなど何も聞かなかった。
シスターも聞いていない。
確かなのは、我々に愛を届けに来てくれたに違いないこと。



▲このページのTOPへ