beggar さまざま
★しがないアート派だけど
買い物の帰り、舗道に何やら描いているbeggarに出くわした。
よく見かけるヒンドゥーの神様の絵ではない。十字架が上部にある。
beggarの様子と手元をしばらく眺めていた。
少し離れた位置にある水のボトル2本とボロ袋が、どうやらこの男の持ち物すべてらしい。
商売道具のチョークは、彼の好みなのだろう白・ピンク・ブルー系ばかり
40本くらいはありそう。絵に文字を書きだした。
まずJESUS、その左にGOD、下にHELP ME、神様、イエス様、助けて。
(彼はカトリック? それとも心情カトリック?)
一度だけ私のほうに顔を向け、右手を口元にやって懇願するしぐさをした。
(食べるお金が欲しい)
私は黙って見ていた。シラミで痒いのだろう、鳥の巣状のあたまを時々掻いている。
ニルマル・ヒルダイに運ばれてくる患者さんと“汚れ具合”は同じだが、
彼はこうしてまだ描く気力がある。
疾患は抱えているかもしれないが、舗道絵で物乞いができる。アート派beggarである。
これまでにも、もっと秀逸なチョークアートで
道行く人にメッセージを送るbeggarを度々見た。
今までルピーをbeggarに渡した経験がない私が、目の前の彼に5ルピーを置き、
アートの完成を確かめずあとにした。
(何もしてあげられない、自分には、多分彼にとって何の助けにもならない、
 なんであげてしまったのだろう‥‥)

その3日後、又出逢ってしまった。
日本に帰る準備で買い物に出かけた先で、このあいだの場所から
100mほど離れた路上で同じチョークアートだ。
ほぼ完成まじかの絵は、先日見た部分の下に
十字架に架けられたキリストの姿が描かれた大作であった。
通る道を変えたのに偶然にも又出逢えたこと、そして絵の全貌を見ることができ、
訳もなく嬉しくなってしばし見入ってしまった。
彼も私に気付いて、素晴らしい笑顔を見せてくれた。
先日のあと味悪い胸のつかえが吹っ飛んでしまった。
もうルピーはあげなかったけれど、思わず私も微笑み返して
“これなんだね、いいじゃない”という思いを込めた。


チョークアートを披露するbeggar 。 実はこの5倍近い長さの大作だった
 

★当たり前の存在ではなくなるのはいつ?
アート派の他に、持久力顕示派のごときbeggarもいる。
左手の肘から先が無い爺ちゃんは、いつも同じ場所にシートを置き
うつ伏せに寝て、短い左手を振り続ける。
シートにはコインが10数枚、10Rs.紙幣も1枚あり飛び散らないようにコインがその上に。
恐らく殆どが演出というか小細工である。
紙幣の位置などいつも全く同じだし、コインのばら撒き加減も。
日が落ち始めた頃に通りかかると、彼はすくっと起き上がり、
右手でコイン類を集めて店じまいしていた。
炎天下であろうが、何時間でも左手を振り続けられる体力こそが彼の売りなのだ。
そのすぐ近くにも持久力派のおばちゃんがいる。
彼女も寝転がり、コインの入ったアルミ皿をカチャカチャ揺らし続ける。
これといって身体的ハンディーはなさそうなのだが。
何故あの姿勢で、あの動作なのかは不明。
最も難儀なのが、バックに元締めがいるbeggarである。
各国のボランティアが滞在している安宿街サダルSt.にはこの手のbeggarが特に多いという。
乳飲み子を抱いて母親がミルク代をせがんだり、子供たちがしつこく付きまとったり、
たとえルピーを集めても大半は元締めに取られ、ドラッグ代などろくでもない用途に回される。
金銭を与えることが罪悪になる典型だろう。
貧しさゆえにマフィアに売られた子供が、手や足を切り落とされたりして
物乞いをさせられるというのも聞いたが、真偽のほどは定かではない。
身障者の物乞いもやはり多いのだ。ベトナムやタイなどアジア各地でも同じだろうが。
膝下から足のない青年が、路線バスに巧みに乗り込んできて、腕とお尻で車中を往復する。
大概一人や二人はルピーを渡す。すると次の停留所で、慣れた動きでヒョイと降りていく。
さほど混んでないバスが来るのを又探すのだろう。
車掌もbeggarや物売りが乗り込むのを見過ごす。
盲目の男性が楽器を抱え歌いながら、奥さんらしき女性に付き添われ
歩いているのもよく見る光景である。
ニルマル・ヒルダイの入口で週3回、ブラザーが周辺の貧しい人たちの創傷治療をしているが、
ここに通ってくるリキシャー引きのあるじいちゃんがいる。
愛想がよくすっかり馴染みになったのだが、いつまでたっても傷が癒えず
通(かよ)うのでブラザーに聞いてみると、治りかけても自分で又傷をつけるとか。
傷んだ足でリキシャーを引いているほうがルピーをたくさん貰えるからという。
1ルピーか2ルピー余分にくれる程度だろうに、悲しい生き方ではある。

処し方に戸惑うのは、信号待ちのタクシーの窓越しに手を差し出すbeggar(大抵は女子供)や、
喫茶店のガラス張りの外側でずっとこちらを見ているbeggarである。
やり過ごす逃げ場がないのを相手も知っている。
こちらが“落ち着かない”とか訴えないかぎり店員も何もしない。
ニルマル・ヒルダイのお隣りカーリー寺院への参詣者をあてに物乞いするbeggarは、
逞しい婆ちゃんのオンパレードである。
アルミのボールを前に置き、サモサやルピーが入るのを喋くりながら待つ。
それぞれのボールへ順にスナック類を入れる人も確かにいる。
下層に施しをするのが自らの功徳になるヒンドゥー教徒にとっては、
ごく自然の行為なのだろう。beggarは人の功徳に貢献する存在なのか。

こういった共生関係は、この社会の寛容さかもしれないが、
根本的な貧困施策をないがしろにする一因とも思えてくる。
ただ待つ、しつこく付きまとう、いろんなパターンがあれど、
私は恵んであげるという気にはなれない。
元締めの存在や、親が子供に強要させているケースや、
よろしくない背景を思えばなおさら、ルピーは渡したくない。
beggarが当たり前の社会、どう変わっていくのか、変わらないのか、
変えなければと本気で考えている人たちが多いと思えないが。


路上で生まれ育つこの子たちは、どうかbeggarではない生きる術(すべ)を見つけられますように。


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