ヒンドゥー教徒の葬儀

11月26日の夜10時過ぎ、下の階から突然男性の泣き叫ぶ声がした。
「まさか、もう亡くなったの?」急いで下へ降りると、
アルジュンさんの妹・リタの子供が喉をふりしぼって泣いていた。
彼のおばあちゃんつまりアルジュンさんのお母さんが、
運び込まれた病院で76歳の生を終えた。
9時15分頃、あまりに息苦しそうなので
「救急車を呼んで病院へ連れて行ったほうがいい」とキランママに勧めたばかり、
9時半に救急車が来て、私は部屋に戻りパソコンに向かっていたのだ。
2年前に乳癌の手術、1年前に肺への転移が分かり抗癌剤治療、
そして半年前には脳への転移が診断され、ここグプタ家でママが介護していた。
私は24日に日本から2ヶ月ぶりに戻り、お母さんの衰弱ぶりに驚いたが、
それでも笑顔で迎えてくれたのに。症状は急変したのだ。
この夜からしばらく、ヒンドゥー教徒の弔事のしきたりに
初めて身近に触れることとなった。

“慟哭”とはかくも

亡くなった夜、病院に付き添ったキランママや
義妹のリタたちが帰るのを待つあいだ、みな動転していて
まだアルジュンさんに連絡していないと思い、携帯で日本に掛けた。
3時間半の時差だから、向こうは寝込んだ真夜中、
やっと出たアルジュンさんに「お母さんがさきほど亡くなりました」と告げる。
「そうかぁー」と言って間があく。
「すぐには帰れませんよね」と言うと、
12月3日の帰国予定は多分変えられないだろうと。
沢山のヨガ教室を抱えている立場を察すると、
私は理解できるがママたちはきっと無理かもと思いつつ、
病院から帰り次第また連絡してもらうことにした。
家の前にタクシーの止まる気配を感じて玄関の外に出ると、
抱きかかえられるようにタクシーから降りてきたリタは号泣していた。
家に入ってもその泣き叫びは続き、開け放った窓から四方に響き渡った。
リタの12歳になる次男が「ママ泣かないで泣かないで」と半泣き顔で水を勧める。
キランママも肩を抱いて何やらなだめているが、
声をかけるほどに一段と泣き声が高くなる。
お父さんは早くに他界し、コルカタでの子育てやビハールでの地主としての
仕切り全てをこなしてきたお母さんへの思慕はことのほか強いようだ。
玄関が開いていたのか、近所の人達が何事かとやってくる。
ママは日本に電話して葬儀のことやらを相談している様子。
途中アルジュンさんの求めで電話口に出た私に、
「キランは私がすぐには帰れないことを分かってくれない。
何とか日本での事情を説明してやって下さい」と。
「アルジュンさんはお母さんやママや、家族みんなのために
日本で働いて来たんだよね、大事なお客さん達に連絡したりして
きちんと段取りしなければならない、
無責任なことは出来ないことを分かってあげて」と私。
葬儀が翌日に決まり、泣き続けるリタをベッドに移し、苦しみから解かれ
病院で冷たく横たわるお母さんを想いながら部屋に戻ったのが1時半。

死者を飾る以外になんの“ことさら”もない葬儀

27日、ワークを休み葬儀に出ることにした。
10時前にリタとキランママの次女イシヤとタクシーに乗り込み、
病院の前でママを拾って、お母さんが一人で住んでいたキディプルの家へ。
近所の人が数人すでに準備に来ていた。
入ると、リタは又悲しみが込み上げたのか泣き出した。
11時過ぎにやっと遺体が帰ってくると、泣き声は一段と大きくなった。
入り口が狭くて簡易ベッド状の台が入らず、
遺体だけを通路に運び込んでじかに寝かせた。
寝巻きのガウンを脱がせて身体を拭き、
白っぽいサリーを着せてあげるのを私も手伝った。
死者の色は白なのだ。
病でやつれたとはいえ、70kgはあろうお母さんの身体は重かった。
深い皺に刻まれた逞しい生き様・業(カルマ)によって、
魂は解脱へと中空をのぼるのだろうか。
女たちは葉っぱ(ヒンドゥー教で最も神聖な植物とされるメボウキの葉)
を入れた聖水(ガンガーの水)を代わる代わる
亡骸の口に3度ずつスプーンで含ませる。
周りにいっぱいお香を焚いて。
傍でうずくまったリタが泣き疲れて放心状態でいると、
今度は通路に面した小部屋に居るキランママがおいおいと泣き始めた。
親戚が次々に来て声を掛けるつど激しくしゃくって。
結婚して20年ほどはこの小さな家で厳しいお姑さんに仕えてきた、
そのもろもろが甦ってきたのだろうか。
娘には甘く嫁には何かと口うるさいお母さんをよくグチってはいたが、
今となっては「あのときもっと優しくしてあげればよかった、
聞いてあげればよかったと悔やまれる」、そう後日ママは打ち明けていたが、
荼毘に付されようとするこの時にもそんな思いで胸が締めつけられたのだろう。
充分よくしてあげたのに。

午後1時近く、いよいよ火葬場に向かう準備で男達が動き出した。
途端にリタの慟哭が家中に轟いた。
家の前にしつらえられた台は2本の竹が通され、
聖なる花・蓮の花輪が飾られていた。
遺体を載せると縄で縛り、ヒンドゥー教の色である
オレンジ色の布をかけて蓮の花を敷きつめる。
お香を焚いてまた聖水を口に含ませる。そして最後の記念写真。
花で縁取られた顔は覆わず、立ち位置などおかまいなしに遺族や知り合いが並び、
リタとママは亡骸にすがりつくように泣き崩れ、
写真屋らしき爺さんがシャッターを切る。私もこっそり撮らせてもらった。
この記念写真が各家庭の神様の部屋に飾られているのである。
台を担ぎ男達だけで火葬場に向かう。
焼かれたあと灰と骨の一部はフーグリ川(聖なるガンガーの下流)に流される。
葬列を見送ってから私は先に帰ることにした。
目にし耳にした昨日からのさまを反芻しながら歩く私には、
揚げ物の匂いも埃も全く気にならなかった。

(そういえば、ママたちはみんな昨日からの普段着そのままで、
顔も洗わず髪も梳かさずだった、
それに司祭のブラフマン〔バラモン〕は葬儀には来てないなぁー)

(あたり構わず、なりふり構わずのあの号泣は、
悲しみの情はもちろんとして、何か一つの作法ではないかしら)

(お母さんが痛みのさなか言い続けていたうわごとは、
ビハールの村のことばかりだったらしいけど、
大都会コルカタに暮らしていても心はいつもビハールの大地にあったんだ)‥‥


遺族との最期の記念写真

忌中のしきたりを守って

日本なら四十九日、ここでは10日間が不浄だとされる忌中、
近親者には色々なタブーが課せられる。
グプタ家やリタの家族が10日間口にしないのは、
にんにくや生姜など香りの強いもの、オイル、塩、
肉類に玉子‥超ベジタリアンである。
そして喪主であるアルジュンさんがまだ帰っていないため、
彼の次男坊が頭を剃られ、やってきた司祭の指示に従い
祈りの儀式を毎日していた。
ファーストフード大好き青年が精進食に甘んじ、
普段は殆ど食べないのにお供え物の果物を完食し、
朝はママたちとフーグリ川に沐浴に行き‥‥ぶつぶつ言ってはいたものの従順に。
やがて仕事先のチェンナイから戻ってきた長男も、
そしてリタの二人の息子たちもみんな頭を丸めた。
3日に日本から戻ったアルジュンさんも。
そうそう、ブラフマンの祭式を見物していると、
ママが渡した心付け(日本みたいに金封に入れたりしない)の額が不満らしく
ひとしきり文句を言って紙幣を追加させていた。
あとでママに聞くと、「私の時間は高いのだ」と言って
倍の500ルピーをせしめたとか。
確か2年ほど前にも親戚のお嬢さんの結婚前の儀式を執り行っていたから、
この家の専属司祭ということか。「全く強欲なんだから」とはママの言。
忌が開ける10日から13日目頃に、葬儀を手伝ってくれた近所の人たちや
親族を招いて食事会(祖霊祭)を執り行なう。
グプタ家でも13日目の12月8日にキディプルにある会館を借りて挙行した。
私は都合で参加できなかったが、200人以上の人々を時間差でもてなしたという。
さらにその一週間後にはグプタ夫妻がビハールの村に行き、
グプタ家の小作人をはじめ村人を手料理で饗した。
何と1000人近くも来たらしい。
葬儀自体はとても簡素、でもそのあとのタブーのしきたりは厳に守るし、
お付き合い行事には相当な出費をいとわないのだ。
さらに一年間は喪中として結婚式など慶事には出ないという。
地域やカーストにより葬儀の形やしきたりは雑多らしく、
特に都会では、派手になる一方の結婚式に比べて葬儀の簡素化は一般的のようだ。


頭を剃って喪に服くす次男坊

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