笑プラザ


〜〜 あ〜あ、もう、ダメね。
いつの間にか20年も経ってしまったーー。
最初から、なんかしっくりしない結婚だったし、これまでずっと、
とにかく二人の体面を保つのに精一杯だったーー。
子どもは無いから、こんな時、つなぎとめるものなんか、なーんにも無い。

あのころ、彼が熱心にアタックしてきたーー。
わたしも若くて、きれいだったからかな。
丁度その頃は、本場でクラシックを勉強するのに、
パリとウイーンに留学も決まってたし、恋心より歌心で頭がいっぱいだったーー。

留学から帰って、いろいろなオーデションもパスして、
それなりにポジションができた頃、彼はもう必死の構えで両親に頼み込んで来たんだけど、
それでも、わたしはなんか人ごとのようにしか思えなかったーー。
彼は、思い込んだら、周りが何にも見えなくなるタイプだから、
両親も、生きかたの違いで、いつかおかしくなるって予感してたんだわ。
でも、歌手生活に絶対に迷惑かけませんって云うから、最後は押し切られてしまったーー。

結婚したら、ますます彼の頭は私でいっぱい。
きれいな衣装を着け、華やかなスポットライトの中で、
澄み切ったソプラノで歌うわたしを、彼はどこへ行っても自慢してたっけーー。
そのうち、私は “美麗”(ミレイ)って呼ばれて、
まあまあ一流歌手の評価も固まったし、その頃は有頂天だったのかもーー。

ずーっとそんなんだから、わたしは家庭的に見たら零点以下。ホント。
手作りの料理で彼に喜んでもらったなんて記憶がぜんぜん無いーー。
毎日、ステージやレッスンで朝から晩まで飛び回ってたから、
たまに彼が先に帰っていて、やけ酒呑んで眠り込んでるのを見ると、
さすがに、ごめんなさいって手を合せていたーー。

この頃は、彼もとにかく家を空けようとしていたーー。
残業や出張は目いっぱいやるし、お得意様の接待で午前様になるのもしょっちゅう。
ふたりの会話なんて挨拶程度だし、夫婦という名の独身者が二人いるだけのこと。
でも、浮いた話なんか聞いたことが無いのは不思議。

ハハハ。 こんな彼の精進振りは、上役から見たら仕事熱心な男に見えたかもーー。
先月の役職者定期異動で四国総括担当のゼネラルマネージャーに栄転したんで、
わたしも素直に喜んだし、少しホッとしたんだけどーー。

でも、その後がいけなかったーー。
新しい住居には、まだ一度も行けてない。
いろいろ詰まってる予定ををキャンセルして行くのも難しかったし、
銀行本店が不便をかけないように手配するって聞いていたから、
そのうちそのうちって思ってるうちに、もうひと月経ってしまった。
まあ、ホンネでは、四国に行っても、バタバタと引揚げたら、
これ迄以上の冷たい関係になりそうで怖かったしーー。
彼だって、挨拶まわりやら業務の引継ぎなんかで、
私事には気が回らないだろうと思っていたしーー。

今頃になって、放ったらかしが気になるから、いつだったか、
夜中に恐る恐る電話してみたら、眠そうな声で彼が出てくれた。
でもーー、互いに心が割れてしまってるし、気詰まりで素直に言葉が出なかったーー。

「相変わらず忙しそうだね」
「ええ、ごめんなさい。顔も出さないで」
「・・・・」
「あのー、あなたも元気で頑張ってるんでしょう」
「・・・・」

電話はそれで切れた。

それから何日か経って、今日、書留でこれが届いた。”離婚届“。
彼の署名と捺印が強く目を刺す。きっと、電話の様子で彼も決心したんだろう。
あの、おとなしい彼が、自分からこんなことをするのは、よくよくのことだと思う。
今までの、心の奥底の不満や憤りがマグマのように爆発したんだろう。
すごく辛かったんだろう。

かわいそうな彼。
私だって何度も、平凡な幸せを家庭に持ち込みたいって考えたけど、やっぱりだめだったーー。
心込め全身で歌い終わった後の高揚感と達成感。
どよめく拍手。ブラボー、アンコールのエール。
こんなステージの魔力にはどうしても勝てなかったーー。
わたし達は、幸せ家庭の幻想をガラスの向こうに眺めながら、
薄氷を踏むような生活を続けていたーー。
もし、ガラスの先に手を伸ばしたら、たちまち世界が崩れて、
方向を見失ったふたりが、躓き転ぶようになりそうで恐ろしかったーー。

フーッ。ここに印さえ押せば、二人は氷室から開放されるだろう。
でも、なぜか淋しい。この虚ろな気持ちーー。

これから、まあ、なんとか自分はやって行けるが、彼の方が心配。
でも決心したんだから、今後の人生をしっかり乗り切って欲しい。

歌曲にも、愛をめぐる切なさや哀しさをテーマにしたものは山ほどあるけど、
最近の何年かは、こんな歌はできるだけ歌いたくなかった。

でも、これからは、そんな歌にも正面から向き合ってみよう。
哀しみも願いも、これまでより奥深く歌えるかもしれない。

いままで、明るいソプラノ歌手という“美麗”イメージにこだわってきたけど、
もっと厚みが出てきたら嬉しいーー。
そして、彼も自分の道を力強く歩んでくれるように祈りたい。
ごめんなさい あなた。
あなたも幸せになってください。



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