「この辺にしよう」 「目だたないとこにしましょうか」
崎野さんと高野さんは、大学の先輩と後輩の間柄。
今日は母校の記念講演会に出席しましたが、講師は大手証券会社で活躍している先輩です。
崎野さんは、大きなリゾート地を経営している高齢の親父さんの
跡を受け継いで、悠々人生を送っています。
高野さんは、ピアノ教師の母親の感化をうけて、クラシックオタクになり、
一時は声楽家を目指しましたが、痩せぎすの体では、声量が出ないということで断念して、
高校の音楽教師に転進しています。クラシックからポピュラーまで器用にこなすので、
自前の音楽教室もやっていて、結構気ままな生活を楽しんでいます。
二人が、隅っこでひそひそと情報交換していると、いつの間にか講演が始まりました。


『−――というわけで、事前のアンケートを拝見しますと、この時勢ですから、
 みなさん、株や投信でご損をなさっているようです。そこで、すごく大胆ですが、
 どうしたらいいか提案をさせていただくことにしました。
 まず、100年に一度の経済難局がーーー』

この辺で、崎野さんは、鞄から楽譜を取り出しました。
見ると、イタリー語の“TORNA A SURRIENTO”の曲です。
横目でチラと眺めた高野さんは、ニンマリしました。
実は、なにか暇つぶしに勉強したいという崎野さんの相談を受けて、
じゃあ、有名なカンツォーネでもやってみたらと言って渡したのがこの曲でした。
パヴァロッティのCDもプレゼントしました。
崎野さんは、講演そっちのけでブツブツ言いながら、歌詞を何度も読み返しています。
こんな所でしなくてもよさそうなものですが、何かに取り付くと、
周りが見えなくなるほど熱中するタイプです。
歌詞の中ほどには、早口言葉のようなナポリタンが入っているので、何度やっても
スムーズに行きません。集中力が途切れると、講師の話が耳に入るようになりました。


『―――ですから、3割ほど下がっているのはザラですが、そのまま放置しても、
 なかなか戻りにくいもんです。そこで、ひとつ思い切って、
 これは売り払い、残金で、分配金が年間10%以上の投信に乗り換える手があります。
 お分かりでしょう。分配金の合計で損失額を埋めてゆくんです。
 まあ、4年半ぐらいかかりますから、確りしたものでなければいけませんけどね』


崎野さんは、1億近い評価損を抱えていますので、ちょっと興味をそそられました。
しかし、今までお金に苦労したことの無い人ですから、
まあ、なんとかなるだろうと思って、すぐに曲に戻りました。

「難局よりもこの難曲を乗り越えるほうが先だな。
 〜DA STA TERRA DE I’AMMORE・・・〜〜」

高野さんが口を挟みました。
「この歌詞はナマリが多いから、イタリー語の基本を
 勉強してからのほうが良かったですかね」

「そりゃあそうだろうよ。何事も基本が大切だわな。
 証券会社の高利の投信だって、その分配金がどっから生まれるんか、
 出せるDNAになっているか知らなきゃ話にならん。
 けどなあ、自分にゃ残り時間が少ないし先を急ぎたいのさ。
 だから証券だって、深く勉強する気も無いし時間も無い。
 これは専門家に任せて、自分は評価する目を持ちゃいいんだって割りきっとる。
 この歌も、らしく出来ればそれで満足さ。フフフフ」


「そうですね、楽しく続けられればそれが最高」

「だけど、こんな有名な歌と有名な歌手のCDを聞いてたら、
 ちゃちな歌なんか聞く気にならんようになってきた。
 なんか基本的な聞く耳が出来てきたのかな。自信はないけどね。
 それよりな、今、もっと基本的で重要な悩みはな、
 便秘のことよ。70年来の個人難局さ。これはごまかしがきかんし、
 すごく苦しい思いをすることもある。かと言って、死ぬまで薬を飲みたくもないし。
 ハハハハ。どっかいい医者知らん?」



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