「もう、半年近くになるなあ。ここらだったかな」
京都のはずれ、観光地図に乗っていなくとも、この小さな社は、千年の歴史があると
聞かされています。杉川さんは、長い石段を、一歩一歩確かめるように登りながら、
あの日の出来事を思い出していました。

今年の正月、世界大不況の中の1月1日。
帰省していた杉川さんが、初詣のためにここに来てみると、
思わず驚きの声を発して、不思議なものでも見るように社を見上げました。
いつもなら初詣客はそこそこで、ゆったりと参拝しているのに、この日ばかりは、
参道はもとより、本殿に続く46段もある石段が、3列に並んだ参拝客で埋め尽くされています。


「ありゃー、なんじゃこりゃ! 苦しいときの神頼みも、ここまでくると凄いもんだなあ」

杉川さんも列に加わりましたが、行列は、ゆっくりゆっくりとしか進まないので、
なんとなく、周りの人からポツリポツリと会話が生まれます。
杉川さんは、さっきから、自分の横に並んだ二人連れの中年女性が気になっていました。
二人とも、表情がめっぽう明るくて、とても、神頼みに来ているとは思えない雰囲気です。
おまけに会話は、日本語と英吾のチャンポンで、片方の女性は、どうも中国の人のようでした。
遂に、杉川さんは好奇心を抑えきれずに、日本女性のほうに話しかけました。


「失礼ですが、外国にいらしたんですか?」

「エッ! まあ、この年末に娘を迎えに行って、ロンドンから帰ってきたところです」

「おう、ロンドンですか、そこにうちの有力な取引先がありますので、
私もちょくちょく出かけていますよ」

そのとき、中国女性がニコニコと話しかけてきました。
「 Shall We Speak in English 」
杉川さんと日本女性が「イエス」「オーケー」と応じて、それから小声でおしゃべりが始まりました。
それによると、女性二人は外国語大の講師で、大の仲良しなこと。
二人とも、それぞれ二人の子どもがいることから、子どものことになると、話に熱がこもります。
特に、日本女性のほうは、長女が3歳のときに、姑の一方的な理由で別れさせられたようで、
そのときに、つくづく夫の不甲斐なさに絶望したことから、これからは、男に頼らずに女手で育てて、
世界でも通用する人間にしてみせると深く深く心に誓って、この社に願掛けしたことがわかりました。
これを話す日本女性は、別人のように厳しい表情をして、目には光るものが浮かんでいました。
横の中国女性が、

「この人、凄い人。英雄だわ」
と呟くと、日本女性は
「そんなことありませんよ、でも、今の私は、これでよかったのかなと思っているんです」

「ホウ、もし良かったら、教えていただけませんか」

「申し上げるのも恥ずかしいんですけど、まず、娘をどうしたもんかと途方に暮れましたんです。
そしたら、偶然ですが、近くに立派なバレエ教室があったので、3歳から、
ここに通わせたんです。ここは、有名な元バレリーナが校長さんで、
いろいろなネットワークもお持ちですし、家庭の事情も申し上げたら、
親切に目をかけても頂きました。もちろん、離婚の慰謝料は、
ぜーんぶ、つぎ込んでしまいました。それからは、本当に血の流れるレッスンでした。
私には、恨みも意地もありましたから、きっと鬼になっていたのでしょう。
いま思えば娘が可哀相でしたね。――

今ですか、娘ももう23歳になって、ロンドンの国立バレエカンパニーで、主役を
やらせていただくようになりました。お給料も毎月戴けるので、自立できています。
有難いことです。3歳のときに誓った夢が、やっと叶ったのかなと感謝しています。
この休みには、あちらこちらで報告やらちょっとした講演がびっしりで、飛び回っています。
もちろん、この社には、真っ先にお礼参上していますよ」

流暢な英語で話し終わると、その日本人女性は、フーッと大きく深呼吸をすると、
肩の荷を降ろしたように、前の爽やかな表情に戻りました。

杉川さんは、途中、何度も深く頷きながら聞いていましたが、
母娘の20年にも亘る辛苦を思って、大きなため息をつきました。

「アア、思いつめて一筋の道を歩み続ける人には、なんか凄さも感じるなあ。
こんな人に出会えるなんて、今年はなんとすばらしい年なんだろう。
自分を省りみりゃ、こんな年になってもずるずると社長業を続けているのは、
自分の得手勝手に過ぎないんじゃないかな。そうだ、この場で決心がついた。
若い者が一途に経営に励んでくれたら、もっと大きい花が咲くに違いない。信じよう」


あの時、自分は、それなりに大きな決断をしたように思う。
それから、ゆっくりと丁寧に毎日を送ることで、今まで見えなかった事も見えるようになってきた。
杉川さんは、あの時、名前も聞かずに別れた二人に心から感謝すると同時に、
引き合わせてくれた神の采配に感謝して、長い祈りを捧げました。



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