「あなた! 今日、大変なこと聞きましたよ!」

外出から帰ってくるなり、祥子さんはコートを脱ぎ捨てるのももどかしそうに、
峰雄さんに話しかけました。峰雄さんも丁度会社から帰ったところで、居間に入ろうとしていました。

「どうしたの? ひどく慌てているようだけど」

「どう話したらいいのかしら。――あのね、驚かないでくださいよ!」

「驚くもなにも、まだ何にも言ってやしないじゃないか。
 落ち着いて筋道立てて話してください」


「フーッ。今日ね、帰りの電車の中で、バッタリと、水城さんご夫婦にお会いしたのよ。
 もう10年以上もお会いしてないでしょう。それで、お元気ですかから始まって、
 今どうなさっているんですかってお聞きしたらね。奥様がね、周りに聞こえないように
 小さな声で、
 <ここのところね、私たち、洗面所の隣の4畳半の部屋で、寝るのも食事も、
 身の回りの物もぐしゃぐしゃになって、すごく窮屈な生活してるんですよ>
 っておっしゃるのよ」


「エッ! なに、それ! 水城さんていったら、すごいお金持ちだったはずじゃないか。
 立派なお屋敷だし」


「そうでしょ。わたしもびっくりして、どうなさったのですかってお聞きしたら、
 ご主人と顔を合わせて、何か言いかけたんですけど、
 ちょうど水城さんの降りる駅に着いたんで、
 じゃあ、また、お会いしましょうって別れたってわけ。
 だから詳しいことはわからないけど、何か、あったことは確かね」


「うーん、水城さんていえば、中国貿易でなかなか羽振りのいい会社を経営していたんだよね。
 それが、そんなに困窮しているなんて、やっぱり、世界恐慌の影響をもろに受けたのかなあ。
 それ以外に考えられないよ。今は世界中が大ピンチだから仕方ないけどなあ。
 気の毒になあ。人生の浮き沈みなんて、誰にも予測できないからねェ


峰雄さんは、もう、すっかり、水城さんが事業に失敗したと決め付けて、
盛んに気の毒がっています。祥子さんは、これまでにも峰雄さんから、
あちらの会社、こちらの会社が行き詰まっているという話を聞いていますから、
あらためて、夫が勤める会社が無事でありますようにと、こっそり祈ったりしました。

「どうだろか、そんなことなら、お見舞いというか、とにかく電話でもしてみようか。
 うちでも出来ることがあるなら、お手伝いしてもいいから」


「そうですねエ、なんか言いにくいですねえ。
 でも、私がお聞きしたことだし、今日のうちに、電話してみましょうかねェ」


気の進まない様子で、祥子さんは受話器を取りあげました。
初めは、何か探るような小さな声で、ボソボソとしゃべっていましたが、
そのうち、だんだんと大きな声で、賑やかにしゃべりだしました。
もう、すっかりおしゃべりを楽しむ様子で、最後はニコニコと電話を切りました。
と同時に、アハハハハハーと、顔を真っ赤にして笑い転げるほどの変わりようです。

「どうした? そんな笑ってる場合じゃないだろ!」

「あらー、ごめんなさーい。とんでもない勘違いですよ!
 あのね、水城さんとこは、事業に失敗したわけじゃないんですよ。
 かなり厳しいようですけど、それはまあ、なんとかやっておられるんですって」


「そんなら、なんで窮屈な生活してるの」

「簡単、簡単。あのね、今、台所やなんか、いろいろとリフォームしてるんですって。
 住みながらやってるんで、少しずつ部屋を移動して暮らしてるんだそうよ、チャンチャン。
 あなたの勘違いもいいところね。水城さんはね、こんな極端な不景気な時だから、
 できるだけ職人さんに仕事を作らなければ、この人たちが困るだろうっていうお考えで
 始めたんですって。世の中では、誰かがひどく貧乏してしまったら、
 やっぱり、全体に影響するっていうお考えのようですよ。立派なことじゃありませんか」


「なーんだ、そんなことか。やっぱり水城さんらしいねェ。そうかあ、伸びるときも、
 縮むときもいろいろと考えれば、身近なところでやれることはあるんだよね」


「そうですよね。わたしたちだって元気で頑張って行きさえすれば、子どもたちや、
 ほかの人にも、お金だけでなくて、物で残したり、考え方で残したりって、
 やれることはいろいろありそうですよね!
 フンフンーー、そこでね、うちでもね、システムキチンを入れ替えましょうかねェ。
 いつもお世話になってる建築会社さんが喜びますよ。どうです?」


「・・・・・! ・・・・・・・」

▲このページのTOPへ