キーンと冴え渡った空。時折、北風が吹き抜けるのか、庭の梅の小枝がそよぎます。
心地よく温まった部屋で、おとうさんが、ふと、一人詰碁の手を休めて、
ミニコンポから流れる音楽に耳をそばだてました。
傍で、正倉院御物の全集に見入っていたおかあさんも、じっと聞き入っているようです。
流れる曲は、とてもポピュラーな<翼をください>ですが、珍しく、
有名なソプラノ歌手が、ゆったりと、伸びやかに力強く歌い上げています。

ーー終わりました。
二人とも、ひどく感心した様子で顔を見合わせました。
「フー、すごいなあ。クラシックの歌手が歌うと、まるで違う歌のように聞こえるね」
「そうね、ピアノの伴奏も格調高くて素敵でしたね」

あくる日、朝食が終わると、おとうさんが、重大なことを告げるかのように、切り出しました。
「あのね、お母さん。こんなのどうかな」
「なんですかあ?」
「ウーン、ちょっと言いにくいけど、あのね、声楽を勉強してみたいんだ」
「セイガク? なんですか? それ」
「声楽は声楽! クラシックのあれさ」
「エエーッ! キャー、グッハグッハハハハハーー。
 あなた、何を言いだすんかと思ったら、そんな〜。本気なの?
 忘年会で、童謡歌うんが精一杯でしょうに」

「そりゃそうさ、しかしだね」
お父さんは、少しムキになって、
「なんと言ったらいいのかな。昨日の歌を聞いたら、二人とも、なんか感動しただろう?。
歌い方ひとつで人に感動してもらえるなんて、
そんな世界があるんなら自分も少し勉強してみたいってわけさ」

「アッハハハハハハ。 なんて単純な人ですネエ。それが、あなたのいいとこですけど、
 その単細胞ぶりに、もう、人様は感心してしまうでしょうねえ」

おとうさんは、いよいよムキになりました。
「そんなに笑うなよ。やってみなけりゃ、わからんだろうが」
「あら、ごめんなさい。あんまり楽しくなりすぎました。
 どうぞ、やってみてください。協力しますよ」


数日後、おとうさんは、意気揚々と帰ってきました。
手には、<プラハ音楽教室>のパンフレットと会員券を持って、ちょっと得意そうです。
「教室の名前がカッコいいんで申し込んで来たよ。
 初心者歓迎とかで、あしたからボチボチと、個人授業で教えてくれるそうだ。
 なんか緊張するなあ」

「まあ、<プラハ>って言ったら、音大出の先生が本格的にやっているとこでしょう?
 でも、引き受けてくれたんなら頑張ってみてね」


あくる日、おとうさんは、音楽教室から帰ると、無言のまま、ソファに倒れこんでしまいました。
「あなた、どうしたの! 気分でも悪いの?」
おとうさんは、大丈夫というように手を振りましたが、しゃべる気力もなさそうです。

三時のお茶の時間になって、やっと、おとうさんがしゃべりはじめました。
「いや〜、声楽っていうのは、こんなに大変なものとは知らなかった。聞いて驚くな〜。
 とにかく、姿勢は正して、しかもリラックスしろ。息は長く吐き切れ。
 声は腹に響かせて力強く出せ。2オクターブは出るように頑張ろう。
 メロディーよりリズムが大切とかとなんとか、いろいろと説明があってね。
 だんだん心細くなってきた。最後のほうになって、折角だから、
 ボイストレーニングしてみますかってんで、ド〜レ〜ミ〜、ド〜レ〜ミ〜って
 何回かやったら、もう、頭がクラクラして−−」

「まあ、それは大変ね。お疲れさま。――でもね、そんなに沢山のこと、
 素人だから長い長い時間かかって、一つづつやっていけばいいんでしょう。
 焦らないで、楽しくやるようにすればいいんじゃありませんか」

「そりゃ、まあね。とにかく生まれて初めての勉強だし、
 最初は疲れるだろうけど、ここで止めるわけにもいかんだろうしね」

「そうですよ。もともとこれは、あなたが、
 何か、人に感心してもらえそうなものを身に着けてみようかなってことで始めたものでしょう。
 クックックッククク。あのね、あなたみたいな年寄りオンチが、
 声楽始めて頑張ってるなんて人様が聞いたら、
もう、それだけで感心していただけるかもしれませんよ。
 クククク。もっとも、少しは笑い顔も混じるでしょうけどね」

 「わかったよ! どうなるか、とにかく続けてみるよ。 ア〜ア〜ア〜」

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