♪♪〜〜ROW&ROW ROW&ROW〜〜♪♪
西田さんは、この「黒の舟唄」が大好きです。カラオケ仲間の間では、西田ソングといわれて
不動の地位を確保しており、ことあるごとに、自慢のバリトンで披露しています。
西田さんの本業は、私大の経済学部の教授で、その人間味溢れる授業は学生に人気があり、
学生たちは敬愛の印として、「ローアンドロー」というあだ名を献上しました。
なんでかというと、西田先生は、授業の締めくくりに、決まって、
「君たち、人生は、どこまでもROW&ROWだよ」とつけ加えるからなんです。

最近、西田先生の様子が変です。なんとなく覇気がありません。
学校から帰ると、なんとなく物思いに耽っているようで、食欲も充分ではありません。
カラオケも気が進まないようです。見かねた奥さんが、わざと明るい声で、

「いかがです、少し休暇をとって、山奥の温泉にでも行きましょうよ」

と呼びかけてみました。反応はありません。
次の日、奥さんは、決心すると植木屋を呼んで、書斎の窓を覆っていた
樫の木の枝おろしをしました。見事な古木ですが、茂りすぎて、書斎に陽が
入らなくなっていました。これで、スッキリと庭の景色も大空も見渡せるようになりました。
西田先生は、とにかくびっくりしましたが、
さすがに品の無い言葉で抗議するようなことはしませんでした。

週末の静かな晩に、質素ながらも心配りの行き届いた夕食を摂りながら、
奥さんは、静かに西田さんの顔を見つめました。
西田さんは、樫の木の件で先制されているので、なんとなく落ち着きませんでしたが、
大きな窓からこぼれる夜景を見ているうちに、ボソボソと話し始めました。
「今の世の中、どうなってるんかなぁ。何が経済学なんかなぁ。いつも、後講釈で、
 これからの役に立たんことばかり教えているような気がする。
 この間も、学生が、サブプライム問題って何ですか、どうしたらよくなるんですかって
 質問してきたから、ここぞとばかり詳しく解説したら、なんとなく教室中が
 だらけてきて、イヤーな気分で終わってしまった。後で気がついたんだけど、
 それこそ、ああなってこうなってって、現象の説明に終始したような気がするーー。
 これじゃ、何のための経済学か判らんよ。今の学生は、結構、情報通だから、
 これ以外にも、食糧問題や、エネルギー、インフレや景気、為替なんか、
 そりゃ、断片的でも生きた知識を持っているように思うね。
 学問が、変化のスピードに追いついていないんだね。
 すっかり、自信がなくなってしまったーーー。」

 
奥さんは、こう見えても、れっきとした大学で社会学を学んできていますから、
西田先生の気持ちが痛いほどわかります。そこで、もの静かに、

「あなた、世の中に万能薬なんてありませんよね。今、あなたがおっしゃった
 世界的な問題だって、最初は小さな現象だったんでしょうけど、
 誰か洞察力がすごい人が居て、ああしてこうしてって仕掛けたら、
 そこへパワーマネーも呼び込まれたり、さらに、総仕上げには情報化社会を
 逆手にとって、大衆の行動を誘導したもんだから、大げさなことになったんじゃ
 ありませんか。世界的なヒステリー現象が始末に負えなくなっているだけですよ」


「!!!!!!!」 


西田先生は、こんなわかりきったような奥さんの指摘にも、とにかく言葉が出ませんでした。
奥さんは、たたみかけて話します。

「あなた、こんなことしたらどうですか。理屈で結論が出ないようなら、
 アメリカなどでやっているように、学生同士の討論会や、学生自身の調査分析などを
 どんどん取り入れて、みんなで盛り上げたらどうですか」


「う〜ん、わかった、わかった。もういいよ。そこまで言われたらーー。
 どうも僕は、完璧な自分にこだわっていたようだ。学生には、いつも、手本を
 示さなければ先生じゃないってね。こんなん、なんとも小さい自分だったんだね。
 社会経済現象の中じゃ、自分なんか漂う塵ぐらいのもんかな――。
 おっと、心配しないでよ。塵は塵でも、それなりにベストを尽くすからね。
 そうだね、さっそく学生の自主的な行動を表に出すようにしよう。
 そうだよ、なんとか理論とか、なんとか体系なんかは補助的に使うとして、
 むしろ、学生には、問題の本質を見抜く力や、想定外の事態に出会ったときの決断力とか、
 工夫する力がつくように、アドバイスする形に変えてみよう―――」


奥さんは、ほっとして、声も優しくなりました。
「あなた、その元気ですよ。先生が元気なら、学生さんだって喜ぶでしょうね。
 それにもうひとつーー。ごめんなさいね。世間じゃ、学生に限らずですけど、
 一般大衆と言うでしょう。なんか、頭も力も無い烏合の衆のようなイメージ
 もってますでしょう。でも私は、大衆は神の声を伝えているように思うんですよ。
 なんでかってね、長い歴史を見たら、結局、一部の権力者や独裁的な組織は、
 いつの間にか、なるようになっているでしょう。今の経済の混乱だって、
 いつか安定的な形に落ち着くんじゃありません?」


「それは言えるよ。エネルギーだって新しい研究が進んでいるし、食糧だって、
 猛烈に品種改良が進んでいるし、病気だってそうだし、とにかく、神様から頂いた
 人類の英知を、今こそ発揮する最大のチャンスが来ているんかもしれないね。
 心配なのは、何かが突出して、宇宙のバランスを崩すことだろうけど、
 それだって、人類は学習してきているから、少しずつでも改善されるんかな。
 宇宙とバランスを保って粛々と生き続けられるようになるには、
 何十年か何百年もかかかるかもしれないけど、信じたいね。
 そのあいだ、だれもが、ROW&ROW だね。
 頑張り続けることが生きている証になるんかなーー」


二人にとっては、久々の、しんみりとした会話でした。
ほんとうに心安らぐ、勇気も生まれる時間でした。

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