郵便局長の夫を助けて、何十年も働きづめだったサキさんは、
まったく突然に、夫に先立たれてしまいました。1週間前のことでした。
まったく信じられない衝撃に、頭が真っ白になって、何がどうなっているのか、
昼も夜もわからないという有様でフニャフニャとなりました。
このごろ少し人心地が戻ってみると、夫の葬式は局員がやってくれており、
誰かが交代で身の回りの世話をしてくれていたようでした。
サキさんには、まったく身寄りがありません。
いま、仏壇に祀られている夫の位牌と写真を眺めると、サキさんは、あらためて、
突き上げる悲しみと、激しい喪失感に見舞われて顔をおおい、畳にうずくまってしまいました。
食事も眠りもガタガタになりました。

こんな有様を聞いて、これはいかん!と、すぐに行動を起こしたのは、高校の先生をしている
山下さんでした。山下さんは、長い歴史のあるお寺の出身で、人情味豊かな親切おばさんで
通っています。郵便局とは先代からの付き合いで、サキさんとは家族同然の仲です。

抜けるような青空の日に、山下さんは、サキさんの好物の桜餅を抱えて、
玄関の呼び鈴を押しました。待つことしばし、そっと開けられた扉からサキさんを見た
山下さんは、ブルっと体が震えるほどのショックを受けました。
そこに見たのは、背中が丸く縮み、百歳を超えたような白髪の老婆でした。
そのあまりの変わりよう! 最近までの、おしゃれで、
笑顔を振りまいていたサキさんとは、まったく別の人でした。

しかし、すぐに気を取り直した山下さんは、やさしく、明るく、懐かしげに
「こんにちは」とだけ言って、サキさんの肩を支えながら部屋に入りました。
さっそく仏壇に手を合わせましたが、意外にも、ピカピカに磨かれた祭壇を見ると、
・・ああ、サキさんは、食事も満足に摂らずに、いつ、寝んでいるのやらもわからない今、
夫の想い出に浸かることで、辛うじて生きているだけなのだろうかと、
切なくやりきれない気持ちになりました。

桜餅を勧めても、サキさんは弱弱しく頷くだけで、目線は、あらぬほうに向いています。
このままでは、サキさんは、精神的脳死状態になりそうだと考えた山下さんは、
とりあえず、カーテンを開けて明るい日差しを部屋に入れ、静かに、静かに語りかけました。

「桜餅見ると思い出すんだけどーー。昔はねェ、みんな貧乏だったわねェ。
 ホント、何食べて育ったんでしょうね。わたしなんかね、田舎の村で生まれたんですけどね、
 14人兄弟なんですよ。わたしは末っ子。なんか恥ずかしくて、
 人に言ったことなんかなかったんですけどね。ハハハ。」


14人と聞いて、サキさんは、ほんのちょっぴり反応したようでした。

「それでね、お乳がね、先に飲んだ5人ぐらいで出なくなるんですって。
 だから、わたしなんかは、いつも、重湯やら、豆の煮汁やらを飲まされていたようですよ。
 きっと、おなかが空いたでしょうね」


サキさんは、今度は少し痛ましそうな表情を見せると、
か細い絞り出すような声で、切れ切れにつぶやきましたました。

「あなたはいいわね。・・そんなにたくさん兄弟が居たら・・。心強いでしょうね・・」

一瞬、陽光眩い部屋に、凍りつく寒さが忍び込むようでした。

「あのね、サキさん。すごく心細くなって、淋しいのはわかるけど、本当は、
 この世で一人ぼっちなんてないのよ。いいえ、一人ぼっちになんかなれないのよ」


サキさんの目が、いぶかしそうに山下さんの目を見つめました。

「それはね、サキさんの周りに知り合いが居るとか、町がなにかと面倒見てくれるという
 意味じゃないのよ。もう、サキさんにくっついて、サキさんのために一生懸命
 頑張ってくれてるものがいるのよ。少し、わたしの話を聞いてくださる?」


サキさんは、今度は、はっきりとこっくりしました。

「じゃあ・・、それはね、サキさんと一緒に生きている微生物のことなんですう・・。
 そんなに気持ち悪そうな顔しないでくださいよ。あのね、微生物の中には、何万年も昔から、
 人間を宿主として生きてきたものがあるんですってよ。
 だから、彼らは、宿主が死んでしまったら困るでしょう?
 それで、人間よ死ぬな、死ぬなって頑張って、人間を守る方法も
 身につけたんですってよ。不思議に思うでしょう?」


思わず、サキさんは自分の顔を撫で、おなかに手をやりました。

「そうなんですよ。サキさんのお腹の中には、500種類ともいうし、
 1兆個ともいう微生物が棲んでいて、おなかの調子を整えたり、
 免疫力を高めて健康を守ったりしてるんですよォ・・。まだあるんですよ。
 お顔やお手々にも、お尻にも無数の微生物が居て、酸性の物質を出して病原菌の侵入を
 防いだりしてくれているなんて、目に見えない彼らに感謝したいぐらいに思うでしょう。」


しばらく考えている風でしたが、サキさんが重い口を開きました。

「有難う、山下さん。わたしがあんまり落ち込んでいるから、勇気づけようと、
 こんな話してださったんですね。本当にありがとう。見えないものでも、
 わたしを守ってくれているなんて、全然気がつきませんでした。ありがたいことです」


山下さんが少しホッとして、お茶の支度に台所に立ったとき、
玄関のあたりで、元気な明るい声が響きました。

「おばあちゃーん! ここにいるのー! 公園に行こうよー」

弾かれた様に、山下さんが玄関の扉をあけると、そこには、山下さんの孫娘のミドリちゃんが、
長い髪にピンクのリボンを結び、自分の背丈ほどもありそうな大型犬のジョンを従えて、
シャキ〜ンと立っていました。

「まあ! おいで、みんなここへおいで!」

びっくりしました。サキさんがしっかりした声で呼びかけたんです。
天使のようなミドリちゃんと、逞しいジョンが、パーッと明るい空気を運んできました。
サキさんは顔をくしゃくしゃにして、ミドリちゃんを抱きしめ、
ジョンの体を撫で回しています。その目は溢れる涙でいっぱいでした。

立ち直りかけたようです。サキさんは、自分を守ってくれる大切な微生物に感謝し、
少し安心しましたが、突然、目の前に現れた可愛い孫のようなミドリちゃんや、
全身を震わせて寄りかかるジョンに感動し、ひたすら抱きしめていました。
やっぱり、ひとりぼっちじゃなかった。守ってくれるものも、思ってくれるものも、
語りかける相手もいる。ひとりぼっちじゃない。

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